| 私は本来、ヌードを使った踊りは好きではない。裸体ほど難しい衣装はないからだ。人間には本能として性欲と羞恥心があり、舞台の上に裸で立つダンサーを見た瞬間、自分を含めて観客の意識が作品のテーマとは全く違う所へ飛んで行くのが分かる。そして、これは芸術なのだと自分に言い聞かせたり、何故この振付家はヌードを使ったのか、ダンサーは本当にそれを理解してヌードになっているのか、などと考える余計な作業が起こる。作品に集中できなくなり、私には正直なところ迷惑なのだ。
私にとって、その数少ない例外は日本人舞踏家達である。裸体をポルノグラフィー的な意識に引っ張らず、本当に美しく使い、芸術として見せられる彼等は実に稀な存在だと思う。 この人、岩名雅記は積極的に裸体を使い、実験を繰り返して独自の芸術を確立した舞踏家の一人。現在はフランスに在住しヨーロッパで主に活躍する岩名が、昨年11月、ニューヨークで一日だけ「式子内親王傅(しょくしないしんのうでん)」を見せた。抽象的な動きの脈絡の中から、人知れず慟哭する女の心が浮かび上がり、そして突然衣装を取り去った時、純粋な人間の姿が現われた。それは不思議な感動だった。(文中敬称略) |
| 自分のメソッドを求めて実験を重ねる
岩名雅記、1945年2月、東京生まれ。幼少の頃はよく乗り物酔いをする虚弱な子供だった。母親が能を習っていた関係で、謡曲を習ったり能の舞台に接することがしばしばあった。1960年に慶応義塾志木高に入学。高校時代には農業の時間があり、土に親しむ。3年後、慶応義塾大学に入学。本人は文学部希望だったが、父親の強い希望で経済学部に入った。1967年、卒業して東京放送(TBS)に入社。しかし会社勤めが性に合わず、1969年退社。新しい人生を踏み出した。 TBSを辞めた後、7年くらい演劇に没頭した。本当は最初から踊りをやりたかったのだが、男がダンスをやることは非常に受け入れられ難い時代だった。そうして始めた演劇だったが、今度は台詞に疑問を持ち始めた。岩名にはどうにも言葉というものが邪魔だった。 この頃、舞踏の創始者、土方巽との出会いがあった。1971年、東京で演劇と暗黒舞踏の合同公演があった時に同じ舞台を踏んだのだ。土方自身のことは、ああ、変な奴だな、くらいにしか思っていなかった。それでも、芦川羊子を含む彼等のやっていることはじっと見ていた。 1975年、30才で遂に踊りを始める。遅いスタートだった。とにかく体を作るためにバレエ、モダンダンス、体操などを習いながら、自分の体と遊ぶということを始めた。当時、彼はそれをダンスとも舞踏とも呼んだわけではなかった。が、体と遊ぶと言っても既存のメソッドがないので、どうしていいかわからない。結局自分自身の方法を捜すために、何でもやってみることにした。 最初は人の真似から始めた。しかし、逆立ちしても真似ているその人以上に素晴しい踊りはできる筈がない。落ち込んではまたやること4〜5年、やがて空間的な制約を持つことが自分の踊りにとって大事なことになると気が付いた。つまり、通常ダンスは動き回ることに結び付くが、空間を限定してそこに居続けるということの中からも踊りが出てくるであろうということを発見したのだ。 そして、「岩名雅記ダンスパフォーマンス」と称してソロを踊る模索の期間が始まる。岩名が裸体で踊るようになったのは、1979年の終わり頃。即興を通じて、裸体を「物」にすることに心血を注いだ。意識や感情を持った体ではなくて、物としての体を徹底的に提示していくという考え方だった。それは構築された裸体であり、安易に服を脱いだだけの裸体ではない。オブジェとして体をとらえるのだ。 1980年から81年にかけて、岩名は「インヴィジブル(見えざる)」という実験シリーズを明大前のキッド・アイラック・ホールで年間5回行った。それは天窓から差し込む自然光の中で全裸で立っているというだけの作品だった。一時間の間に陽光が変化し、それにつれて皮膚がどんどん変色する。こうして皮膚が「踊りの皮膚」に変わっていった。 1983年、土方巽から一緒にやらないかと声がかかった。そして土方の作品「プランB寺模写」に出演。12年ぶりの再会だった。しかし、岩名は集団の中に入っていくのは得意ではなく、結局土方の弟子になることはなかった。ただ、土方の理念には素晴しいものがあり、随分勉強させてもらったという。そして1986年、土方は他界してしまう。 土方の作品に出た直後、岩名はフランス・アヴィニヨンでのシャルトレーズ国際演劇祭に招待され、無音で50分間踊った「蓮の国」が高く評価された。これは彼にとって大きな転機となった。その頃から、人間としての体を考えなければ自分ではないのではないかと思うようになった。衣装とは何か、衣装は自分を飾るためのものではなく、自分を裏切る、或いはひっくり返すものとして装置されるべきだと思った。更に、自分の中の性の両義性、すなわち、自分の中に同居する男性(おとこせい)と女性(おんなせい)を自覚するようになったのである。 エポックとなったのは85年に創った「生成(なまなり)」。初めてヨーロッパ近世の貴婦人の衣装を着けて踊った。自分の中に潜んでいる女性性を踊りたかった。生理的には男だが、自分の中にある女というものを生きて見たいという欲望は子供の頃から強かったと岩名は言う。この年、岩名は自らの舞踊を初めて舞踏と名乗った。「自分でも舞踏が何なのか分からなかったが、舞踏の定義を拡げる、或いは曖昧にさせようと…」と岩名は語るが、自分の踊りに関して多くの開眼があってのことであった。物としての体は、この作品を通じて、魂が通い感情を伴った体へと変転した。それ以降、92年の「水引きに胡蝶」という作品まで女性を踊り続けた。 そして更に岩名は、自分の中に棲んでいる高貴なものと賎しいものに意識を向け始める。しかし、高貴なものと卑しいものは別々にあるのではなく、自分が卑しいものだと認識したときに高貴なものに通じていく。最近、浄土教の原典ともいえる浄土三部教を読んで、その考え方に更に確信を持つようになったという。 指圧とヨガからも多くを学ぶ
1995 「物質との密約」、東京、写真:高橋成忠 「ダンスで食べられるなんて…」
日本の文化は、構造的な産業文化
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| 三崎恵里(みさきえり)
香川県高松市出身。1982年ニューヨークのマーサ・グラハム・スクールに留学。卒業後、地元のエリオ・ポマレ・ダンスカンパニーで踊る。1992年、舞踊サービス機関ダンス・プロジェクト・シークエンスを設立、ダンス情報誌「ニューヨーク・ダンス・フアックス」と「ニューヨーク・ダンス・スクール/スタジオ・ガイド」を発行する。 |